2026/01/28 19:46

モノにまつわる物語にはいくつかの種類がある。
街のお店やオンラインショップで商品や作品に出会うとき、
私たちが頻繁に触れるのは「モノを語る物語」だろう。
発信者の言葉が先に立ち、モノは語られる客体となる。
作品が作られるまでのストーリーや
商品の利便性、優位性を証明する親切な解説は、
消費者に届きやすく商業的にはたしかに有効である。
しかし、語りの権威性が強くなれば
一面的な価値観の刷り込みもまた強まり、
受け手の自由な見方や解釈は狭められることにもなるだろう。
民藝運動の旗手・柳宗悦は
そのような構図に静かな異議を立てた人だった。
民藝の美しさは、直に観たり触れたりしなければ分からない。
「これは何焼で、誰の作で、いつの時代のモノか」と問う前に、
まずモノそのものが語り始めるのを待つ姿勢が求められる。
モノそのものの美こそが、静かに語る主体なのだ。
柳が「無名の工人」や「下手物」と呼んだ器や道具は立派な来歴を持たず、
批評や言説の中心に置かれる存在ではなかったが、
日々の生活の営みの中で働く道具の姿は、そのままで美しい。
繰り返し使われること、その痕跡を引き受けることにこそ、美が宿る。
柳が見たのは、モノとヒトのあいだに流れる“間”である。
古着の擦れ、器のひび、道具の黒ずみは、時間を物語る。
形の歪み、釉薬の流れ、焼き色の階調は、空間を物語る。
補修の跡、金継ぎの線、染め直しのムラは、手間を物語る。
そして、これら一つ一つの物語自体が、人間を物語る。
民藝や数寄の世界が大切にしたのは、
この「モノが語る物語」を静かに受け取る感覚だった。
しかし、インターネットが張り巡らされた社会は、
民藝がほどいたはずの神話を別のかたちで再建してしまう。
アルゴリズムが既に人気のある名前をさらに輝かせ、
無名の工人や無銘の作品は検索の網にすら引っかからない。
数値化や言語化できない美しさは可視性の外に沈み、
モノは説明の挿絵となり直観は働く場所を失っていく。
だからこそ、今改めて「モノと語る物語」を大切にしていきたい。
モノは評価される対象でも、記号消費される客体でもなく、
ヒトと対等に向き合い、寄り添い合いながら歩む相手である。
繰り返し手に取り、手入れする度に物語は編み直される。
壊れて使えなくなったり、手放してしまったとしても、
「モノと語る物語」は使い手の心の中に残り続ける。
どんな「てにをは」でヒト・モノ・コトの関係を結ぶのか。
それは、どんな世界を選び取るのかという問いでもある。
「モノを語る物語」を過信せず、
「モノが語る物語」に耳を傾け、
「モノと語る物語」を紡ぐこと。
あなたが選んだ世界の物語も、是非お聞かせください。
